2026年3月 1日 (日)

2026年2月の俳句・短歌・579句

毎日1つづつ気の向くままになぐり書いている 俳句、短歌のようなもの、それに最近始めた57句(579の句)2月分。時々字余りになる、それも面白い。読み返すと2月がそのまま蘇ってくる。


俳句 (ルリビタキ空)

もう春がハシビロガモの迷い浮く

片隅にぽつりと咲いて沈丁花

カモ消えてさやかに気づく春が来た

ホクシアの花熱帯の気を込める

レンジャクは未だ見えずにイカル等と

ふと見れば笑うようにてユキヤナギ

風荒れて鳥忙しく春近し

小春日ともーう呼べないうららかさKizuisen0220aa1

バタ臭いような気もするキズイセン

ツバキ咲く遅れた春はどっときそう

ダイサギの振り向きざまの飾り羽

梅の香もしたようなほど天満宮

のんびりとハクセキレイも春散歩

満開の梅誇らしげ庭照らす

雲低しコサギの一羽春予感

寒暖の波に遊ばれ春近し

冬なれど平気で水浴びヒドリガモ

オオバンや川面のさざめき春の予兆

ジョウビタキ長旅控えのんびりと

晴れわたる雲なき空はうら寒し

風邪をひき布団かぶるも選挙荒れ

カササギの居ついたようで冬嵐

天めざし何を思うか冬のバラ

冬らしくない派手さありカンアヤメ

髪を切る他に客ない春床屋

松原にカワラヒワひらひら浮いて

めくるよう梅開きゆき春見えて

やっと咲く白きスイセン春ちかし


短歌

響かない会社の続きのような本 昔の日々は飛び去りており

めぐみ雨散歩できずにうちばかり本は読めるしブログもかける

冬鳥は消えゆきておりため池は河津桜の満開包み

一日が雨で流れつ過ぎていく緩やかに来る終わりが見えて

室見川河口に群れるスズガモのどこか寂しい冬の終わりが

緩い時流れて行きぬこれこそが望んでいたもの望む生き方

広縁でひなたぼっこして鳥を見る本を読んだり気ままな時間

冬鳥の静かに去りつ街の池季節はよどみなく進みおり

老いること素直になれない人ばかりちょっと臭いぜ慎太郎さん

なにもない何もしない日幸せが溢れるようにあたりを覆う

あせりあり残り時間をなくしつつ何のために生きているのだろうか

中国語ばかりが聞こえ天満宮何かを無くしてしまったような

春めけば雑事あれこれ片づきて体の動き良くなってきたよう

春が来るいいことないな春が来る生きてる意味の無意味さばかり

森静か嵐の予兆沁みわたる空騒ぎだけのヒヨドリ空し

つかれくる介護保険の更新が本質何か見えにくいよう

高齢の免許更新一苦労認知試験に高額講習

マーラーの人生を語るような第9番こうだよなあと慨嘆するくらいリアル

来てみれば城址の梅の品の良さこれは価値あり郷土の宝

寒ければ鳥も姿を隠し気味庭はスズメのお宿になりても

過ぎていく時のさざめき心地よく無為にまどろむ贅沢次元

ジャズだった昔の記憶湧いてくるどんな人生だったのか

投票日大寒波予想これは無理事前投票の列に並びぬ

パソコンを間違え続く気象処理今まで何をやってきたのか

久しぶりすき焼きつくる夕まぐれ糸コンあればなんとかなるな

海見たし赴くままに松原へ何だか広くない海がある

一月の野鳥記録を整理する何事もなく時が流れる

ひたひたとビデオはたまりゆくばかりいつ見れるだろうか気が重い


57句(579の句)

過ぎ行きて今日で終わりか短き日々2月

春めいてやること多しもう寝なくちゃ遅い

記帳にて解らぬ数字記憶のはかなさよ

老いゆくは遅くなることそう思えてくる日々

水仙も終わりかけつつその角まで春が

寝付かれず春がそこまで文が書けなくなって

ついに来た春一番のなま暖かき風

汗ばみて春がここまでもう来てしまったな

来期からはじめることは2月から動いて

松を切る暴れるような松をばねじふせる

春めいて何やかにやで夜更かししてしまう

近寄れば梅の香りが満開というよう

シジュウカラしゃべるというより掛け声の連鎖が

庭梅のはなびら土に帰りたがってるよう

雨近しスズメのこもる植え込み騒がしく

小春日に鯉と遊ぶはのんきなヒドリガモ

うんざりの介護保険に絡まる人と人

思い出す昔の街を徘徊した時代

やどりぎにレンジャク見えず難しいか今年

人生は雑事ばかりの重なり合わせかな

梅開く満開まではまだまだ長い空

混んでいる選挙のせいか明日はどうなるだろう

列長し寒波におびえ期日前投票

安売り日カート出払い右往左往のスーパー

うとうととこの眠いのは近づく春のせい

海がいいどうであっても海に向かいたくて

寒い風普通の冬を何時ものように連れ

図書館のルール変わりて本に振り回される

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2026年2月 2日 (月)

2026年1月の俳句・短歌・579句

ほぼ毎日書きなぐっている俳句・短歌のようなもの および月の途中から新しく始めてみた579句の1月分。その時感じたことが焼きついていて、読み返すと、そうだった と感じ直すところが面白い。

俳句 (ルリビタキ空)

荒れ模様時代を映す初詣

冬深しまたヒヨドリの騒ぎおり

ホトトギス密かに開く冬の庭 
  
毒のあるシロヤマブキの作戦が

ウグイスの地鳴きの声も懐かしき

買ってきた七草がゆの塩辛さ

正月にカササギペアがおめでとう

満席のニューイヤーコンあけまして

ロウバイもピカピカになり寒まさる

つぼみには春を潜めて庭の梅

サボテンの春の予感がまぶしくて

小春日やカワウ羽根開け風和む

小春日の池賑やかに鳥動く

つわぶきのわたげも少し疲れぎみ

春近し青子の池にコガモ浮く

寒菊の咲き誇りたり侘びた庭

白梅の密かに開く寒さかな

メジロきて一月らしい空の色

突き刺さる寒気弱まる体撃ち

アオサギも葦を頼りに寒波耐ゆ

ダイサギはうれしそうなり冬の池

アオジ来るマガモは去って冬嵐

重い雲スズメのなる木冬景色

この梅はどこから飛びし梅かいな

キンクロは相手ができて冬の池

サザンカもこれが最後か春じわり

日差し良し布団干してや夜おでん


短歌

寝坊して初日の出には遅れしが昇る朝日は自信ありげに

正月もあに休まらずがたぴしと暇なし老人それもまたよし

暇なのに時間が足りないそればかり残り時間がとにかく足りず

3が日過ぎても雑煮抜けられず餅はあるだけ使うほかなくて

つながりがぽろぽろと切れていく賀状減るもメール年賀いい

デイサービスこれも行けなくなってきてスパイラルのよう落ちていくさま

風邪のようなぼんやりした雰囲気がこのまま続くようで怖くもある

こんなでは最後の挨拶できはせぬいったい何をしてきたのだろうか

ニューイヤーコンサートには定番のワルツポルカよりガーシュインがいい

ブログ書く投稿できる反応もこうしていればボケもくるまい

思うには任せられずに介護日々どうなっていくも大差ないよう

風邪をひく命関わる思いして 最後のおじぎ浮かんでは消え

なにやかややること次々押し寄せて何時になったら静かな余生

うつららと景色は過ぎて時は過ぎ何だか文章へたになったなあ

試験あり試験で進む勉学がやはりこれが学びの基本か

とにかくもひとつ試験を乗り越えて前に進めた感触よくて

この季節確定申告パソコンで去年の手順忘却彼方

一月は忙しくあれたんたんと過ぎていくのが毎年の形

過ぎていく一月の時これっきり掛け替えのない風流れ去る

ペチュニアのけなげに咲いて冬盛り手加減しない冬将軍に

寒波来る北米寒波連動す国境のない地球がリアルに

雲低し寒いばかりの日が続く春は彼方に遠ざかったな

車検くる動く車に問題なし濃厚検査仕事つくりか

デジカメのレンズにゴミが紛れ込むどうにも取れないゴミと共存

松浦の家宝並んで熱きもの心伝わるこれぞ宝よ

税金の重みがじわり効いてくるまだまだ持ちこたえねばと念ず

起きてこずそのうちほんとに永眠か限りある日々終末のリアル

庭に来るスズメらの数増えてきて鳥と話せぬもどかしさつのり


5-7-9の句

一月に連れてこられたメジロの寒さかな

突き刺さる寒風を受くなにくそこれくらい

寒波来る極渦こぼれ北極がここまで 

野鳥池ハシビロガモにホシハジロキンクロ

木枯らしに小鳥にぎわうシジュウカラアオジ等

重い雲スズメのなる木真冬の風物詩

飛梅のほのかに咲きて二つ三つそっくりに

いくつものやることやってしのぎ行く初春

忙しい春がまた来る休むは今のうち

極東と北米寒波地球の意思表示

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2026年1月24日 (土)

579の句を作ってみる

寝る前に俳句をひとつと和歌をひとつまねごとのように書いているが、575にとらわれるのもなんだか古臭いにおいがしてきて、ここは新しい形はないものかとの気がしている。今思いついているのは俳句の575ではなく579の句というのがあるのではないかというあたりだ。575はまとまりがよすぎて広がっていく感じに少し乏しくなるようにも感じている。577というより579まで下を広げると新しい世界ができてくるかなとも思って試しに作ってみる。

突き刺さる寒風を受くなにくそこれくらい

白梅は密かに開き春の一番乗り2026012712utc250mwind

寒波来る極渦こぼれ北極今ここに

俳句のしまりのある感じがなくなって少しばかりとらわれなくなっているところが面白いと言えばそうだ。好きずきだ。

もしかして他でもこんな試みをする人がもういてるのかもしれないとNetで探したりAIに調べさせたりしてみるが今のところ見つからない、

もう少しこの579の57句で遊んでみようかと思っている。

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2025年12月 1日 (月)

2025年11月の俳句・短歌


毎日1句だけ書いている書きなぐりの俳句・短歌、2025年11月作成分です。

俳句 (ルリビタキ空)

時はやし過ぎ行く秋に置いてかれ

若鳥は秋になっても落ち着かず

うつくしき2羽のマガモを見とれたり

茶の花はすねているらし朝の冷え

やれること少なくなりき秋の暮

渡り来し鳥にぎわいて秋の池

ストックのほのかに咲いて暮れる秋

雲厚し冷たき雨にひきこもり

寒風に戻りうれしやカワラヒワ

黒くないズグロカモメの平常が

渡り来る鳥らは休め紅葉空

庭そうじ晴れない秋に月も出ず

悩ましいチュウダイサギの冬姿

ヒドリガモ渦巻き模様の水面つれ

冬鳥と旅行者たちと昼下がり

雲低しこの地の冬のかくありき

冬鳥の揃いし姿様々に

アオサギの秋は清冽水鏡

山茶花の一輪咲きて焚火かな

雨やみぬハシブトガラス夕餉時

エサ撒いてやっと撮れたぜシジュウカラ

マガモには春のようなる池紅葉

ダイサギも堂々とする冬が来た

紅葉より稚児ばかりなり八幡宮


短歌  (ruribi)

11月!合わせて鳥も冬らしく渡り来るにハシビロガモかあ

時こぼれどうすればいいのだろうか社会と切れて無為に漂う

百均の棚を巡りてこんなもの!こんなもの!とは見つけけり

ばたばたとやらねばならぬことばかり老いることはせわしなきかな 

楽しくもないコンサート疲れありバルトークはやっぱり苦手

ボケ妻の血を巡らせたいとばかり買い物に出る虚しき戦い

ついてけず世との剥がれいやましにこうやって人はバラバラになるか

じたばたと何やってるかわからない暗闇の中に風に吹かれて

鳥遠も久しぶりにてありがたしあと何度見れるかこの景色

遅くまでブログ書いては空しくて書くべきことは山のようにあり

風邪ひきか頭が痛む夜が来る本の中にはなーにもないから

自らの最後の挨拶作らねば書くべきことがありすぎてさて

連日の図書館通いも違和なくてどこか安易なかおりにも慣れぬ

つれあいの勝手さ加減にいやけさしとにかく外へこちらも勝手

庭木刈るスズメすかさず現れてすいた枝間の居心地試す

テレビ見るネットフリックス面白し秋の夜長はいくらでも過ぐ

もう寝なくちゃなあと思っていても午前1時はするすると去り

晴れ渡り山茶花咲いて冬近しいつものようには冬は来ないか

嵐にて連休あとの火曜日は行くところなく時過ぎにけり

尽きつつも時間足りないそればかり時間足りない時間足りない

面倒な年末がすぐやってくる生きてることは面倒ばかり

寝つかれぬ夜ばかり過ぎて風邪ひきか もはや体は耐えれないよう

気がせいて紅葉につられ八幡に季節どうにも駆り立て上手

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2025年9月21日 (日)

「ギリシャ語の時間」を読んでみる、よくわからない

ハンガンの詩集を読んで、今一つピッと来ない感があって、小説も読んでみるかと、図書館から「ギリシャ語の時間」というのを借りてきて読んでいた。ハンガンの作品のうちで待ち行列が短かったというのがこの本を読み始めた理由で、何かにひかれたわけでもない。とにかく読了して図書館に返却した。読後感は、よくわからなかった、というものだ。詩のような書き方で、それは心地よい響きなのだが小説としての筋がなかなか見えてこない、ついに見えなかったという感じだ、小説特有の共感性がわいてこない。Greece 終わりがない物語の途中までを読んだという感じかもしれない。
読みながら各章の視点の移ろいについていけない、この章の語りは誰の言葉なのだろうか、それがしばらくわからない。普通の小説の書き方では全くない、これは小説というのだろうか。
矢張り自分が年を取りすぎてしまったようだ。
若い頃はこういうう書き方はどちらかというと好きなほうだった、でも今となっては戸惑いばかりが漂う。読む本がなくなってきているな、そんな感じさえしてきている。
とにかくまだ時間は結構残っている、気楽に時を過ごしていけばいいだけなのだろうが。

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2025年8月22日 (金)

2024年ノーベル文学賞のハンガンの詩集を読んでみるーー心に響かなくなっている老化した自分を思う

やっと図書館の貸し出し順の回ってきたハンガンの詩集「引き出しに夕方をしまっておいた」を読む。ぴんとこない。翻訳では言語のリズムがでないのかな、とおもうが作者朗読のユーチューブを聴いてもリズムは感じにくい。どうやってノーベル賞に選考されたのだろう、詩ではないかな。自分の感受性の問題もあるか。Hangan
最後のページから誘導されるネットの特設ページ(https://cuon.jp/info/2330)で作者が日本読者向けに言葉を送っている。1992年から2013年までに書かれた詩の中から選んだ60編だという。発表を念頭にしなくて書いた個人的な詩が殆どとも。ハンガンが世に出たころからおよそ20年にわたる詩だ(22才から43才の間の作品ということになる)。
もう少し若い頃は反応した言葉が並ぶ。青い、と感じてしまう。それをいうと詩は成り立たないな、そうも思う。詩や短歌には文章に書けない心の本質がにじむ、書かれた時の心そのものがここにあるのだろう。もはや反応できないのは自分の老化としか思えない、年を取るということはこんなことだったんだと改めて思う。
ハンガンのノーベル賞は小説家としての作品に負うところが大きいのだろう、小説も一つくらいは読まねばと図書館の待ち行列に並んでいるが長い列で一向に回ってこない。老いゆきながら気長に待つほかはないか。

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2021年7月23日 (金)

和歌を学んでみようと

放送大学で半年に1つずつ学んでいるが今期は和歌としてみた。「日本文学と和歌」という講義だ。NHK和歌に半月に1回投稿して入選したこともあるが最近は惰性で作っていて、一度和歌とは何かというところをきちんと学んだ方がいいのではないか、と思っていた、そのあたりがこの講義をとった動機といえるのだろう。数日前に試験答案も送り出して終わったところだが、さて何だったのだろうと振り返ってみる。
万葉から江戸期までの和歌がどの様に詠まれてきたか、という短歌の歴史的経緯を学ぶのが中心となる。
学び終わって振り返ると、武家が支配する時代は天皇・公家は和歌の編纂にばかり力が入っていたようにみえる。そこに存在の価値を込めていたのだろうか。新古今和歌集の後の南北朝から江戸に至る時期の和歌など注目したことが無かったが、形式に堕せず現代的な率直な歌が幾つも見られて少し驚かされる。例えば14世紀に登場した京極派の中心人物と目される光厳院のともしびのうたに、
ともしびに我も向かわず灯も我に向かわずおのがまにまに
とあったりする。
古歌にUta とらわれず表現が直接的で現代に響いてくるようにも感じられる。
古い歌を踏まえた歌というのが歌道の基本にあったと思っていたが、そんな時ばかりではなかったようだ。古歌を学ぶにしても、うたの言い回しというよりその古歌をを読むに至った作者の心の動きを学ぶべきだ、との教えが尊重されたりもしたようだ(和歌嫡流の二条家・二条為世の弟子であった和歌四天王の一人、頓阿による教え)。
和歌の歴史そのものが生き生きしているように見えてくる。
学んでいくとどうしてもこの和歌という形がどうやって成立していったのか、万葉仮名で音を写し取って万葉集が成立したように、文字伝来以前、語る言葉のみを用いて和歌が成立していたのは明らかだ。それは何処から来たのか、とどうしても疑問になる。この講座の範囲ではカバーされておらず、講師に質問すると、<うた>起源考 藤井 貞和/著 という本を紹介されて図書館から借りだして読んでいる。
読むと、外から来たとすると南インドのタミル語のサンガム詩に強い類似性が見られるという説が紹介される。大野晋によるもので日本語そのものとタミル語の類似性の指摘とともに語られているようだ。著者も無視できない説としており、共通の祖先を持つのかもしれない。南回りに言語文化が波及したという見方は10万年前のホモ・サピエンスの出アフリカから東進して来た人類の歴史を示しているようにも思えてくる。

またいろいろのことを学んだ気がする。学び続けることが生きるということかもしれない。

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2019年10月31日 (木)

10月も

  

10月もあと少しでもう終わり


足元には古の暮らしがいつまでも居座り


その記憶を叫び続けている


1000年前も10000年前も同じように繰り返されて


記憶は叫び続ける


そんなことを教えてくれた


10月ももう終わりSoseki1

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2018年1月28日 (日)

古事記と万葉集を学ぶ

古事記と万葉集という講義を放送大学で受講している、というかもう試験も終わったので受講していたというべきなのだろう。ラジオで聴取する形で、教科書とラジオ録音がすべてだ。15回の講義で1回あたり800円弱の受講料を前もって払っておく必要がある。高いといえば高い。資格を取るといった明確な目標を抱いて学ぶ人には妥当なのだろうが面白そうだから学ぶというには費用が少々大きい。まあしかしこんなものだろう。

古事記から入る。古事記は713年に完成し天皇に献上されたとされている。
古事記は漢文体の日本書紀に対比させられる音訓交用表記であり、中の歌謡は一音一字の音読みの所謂万葉仮名表記,神の名前は殆どが訓読み表記となって文体に苦心の

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跡がうかがえる。
中国文化を日本文化に取り込み咀嚼した漢字かな交じり文の原型が作られたのが古事記ということになるのだろう。
太安万侶の序文は表記の苦心を述べているがこの序文自体は漢文であり、公式文書はやはり漢文という当時の感覚も感じる。

古事記はともかく伝えられている国の歴史を物語と歌謡としてそのまま内向けの言葉で書き下すところに力点が置かれたと感じられる。

万葉集の巻一巻二は古事記とほぼ同時代に編纂され、古事記の続き すなわち舒明天皇以降の歴史書としての側面を課せられていたように考えられるという。
古事記では雄略天皇までが事績の記述が書き込まれていてその後の推古までは系譜のみとなるが日本書紀は持統までの事跡が淡々と記されていて対外的な歴史書の体裁をとっているようだ。
古事記+万葉集が所謂人間史、日本書紀が正史とういうことになるように思える。

古事記以降の人間的な歴史の記述を担わされたのが万葉集の一側面ということになるものの、万葉にあげられている古い時代の歌はその後の時代に造られた歌がそのように言い伝えられて残ったともみられるところがあり(即ちまつわる物語が創られていて)、混乱があるところがかえって生々しい。

例えば16代仁徳天皇皇后の磐姫が作ったとされる短歌四首が万葉集に載せられているが(巻二)、古事記の記述では19代允恭天皇の軽太子のところに出てくる衣通王(そとほしのおほきみ)の歌がこの四首のうちの一つとほぼ同一で、どちらが創ったとするのが正しいのか、どちらも怪しいのかわからない。巻二は古事記の編纂された十年位後の720年代にはほとんど出来上がっていたと思われているようだ。

古事記の軽太子のところに出てくる長歌は万葉集巻十三相聞歌に出てくる軽太子にまつわる長歌とほぼ等しいものの、この万葉仮名表記は古事記の方では1字1音を守っているが万葉集では漢字万葉仮名混じり文のように万葉仮名を使っていて明らかに万葉集編纂者は古事記を見ながら編纂し、編纂時の世間で語られていたことに引きずられて漢字万葉仮名混じり文にしているといると感じられる。
*)注。
先にあげた古事記で衣通王の歌とある短歌については古事記が時代的に先だけに衣通王の作とするのが正しそうに見えるが、一方で万葉集で磐姫の歌とされる四首は第四十一代持統天皇(在位690-697年)(藤原不比等の時代)のころに連作としてまとめられたようだという見方もあり、やや奇々怪々の印象を受ける。

藤原氏の勢力がゆるぎないものとなったのは当時の慣例を破り皇統でない藤原氏出身の光明皇后を仁徳天皇の皇后として立后(729年)したところにあるとの見方が有り、この立后の僅かな前例が同じく皇統でなかった皇后磐姫だったというところに磐姫を巡る記述の危うさがあるようでもある。古事記での磐姫の記述は極めて嫉妬深い女性として描かれ印象が今一つよくないところを改めるべく、磐姫を立派な歌を詠んだ姫とのいい印象を与える後付け証拠としてよくできた4首が集められこれが磐姫の連作のように万葉集に載せられたのではないのか、藤原氏の強い意向が入っているのではないか、どうにもそのように思えてしかたがない。

この衣通王は、柿本人麻呂・山部赤人とともに和歌三神と呼ばれるほどに和歌に優れた才能を示したとされているようだ。もっとも和歌三神としては幾つかの挙げ方が古来よりあり、玉津島明神と住吉明神、柿本人麻呂を挙げるのがむしろ普通ではあるようだが玉津島明神とは衣通王のことを指しているとされるため、いずれにせよ衣通王は古来より和歌三神の一柱だったということのようだ。それにしては残された歌が僅かしかない。衣通王の伝説が先にあって紀の国に伝えられておりそれをひきずったのが古事記の記述であるのかもしれない、古に優れた女性歌人がいた、そこが伝説の始まりかもしれない、そんなことも思ってしまう。すべてが架空のものがたりであり、歌だけが残ってきたという気がしてくる。

古事記と万葉集を見て行くと漠とした上代の雰囲気が感じられてくるばかりで、不確定性原理のようなその漠とした存在の仕方が日本の文化の原点そのものであるように思えてくる。そんなことを感じるようになっただけでも改めて学んだ価値があったように思う。学ぶことはやはり楽しい。
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*)例えば
隠(こも)り国(く)の 泊瀬(はつせ)の河の 上つ瀬に 斎杭(いくひ)を打ち
という長歌の始めの方の表記を比較すると

古事記允恭天皇90:
許母理久能 波都勢能賀波能 加美都勢爾 伊久比袁宇知

万葉集巻十三3263:
己母理久乃 泊瀬之河之 上瀬尓 伊杭乎打

と万葉仮名表記でも随分違う、万葉集は漢字で纏められるところは纏めている。

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2016年8月31日 (水)

8月も終わりで


8月も終わりで
暑いのも終わりで
何だかもうおわりかい
ここで終わるとはもったいない


8月も終わりで
俳句が作れなくて
絵が一枚も書けなくて
泳ぐのさえつらく
やっと終わる8月
でももったいない


8月も終わりで
熱中症警報も終わりで
冷房も終わりで
気楽でいいけれど
何だかなくしてしまったような


8月も終わり

Karasu

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