2026年4月14日 (火)

直方の多賀神社に詰め込まれた歴史を感じる

桃の花を見たいと直方の多賀神社に出かけてみた。伊邪那岐を祀る神社で伊邪那岐が黄泉の国から戻る時追っ手を追い払うために桃の実を3つ投げて逃げおおせTagajinjya0408a たという話から境内には桃がたくさん植えられている。中でもキクモモというのが華やかで今時分の桜が咲く最後のころあたりで満開になるようで美しい。この神社のある山から伊邪那岐は再び天に昇ったとの伝承が古くからあるようで奈良時代にはすでに神社の形があったと伝えられている、とにかく古い神社だ。ひとわたり見て裏手に回ると芭蕉句碑がある、古池やかわず飛び込むみずのをと の句が刻んBasyoukuhi0408a である。何故ここにと思うが、どうやら江戸~明治以降に地元の俳人や文化人が顕彰のために建てたものと思われる。芭蕉は九州に来ようとしたが果たせず夢は枯野を駆け巡るとしか残せなかった、元禄7年(1694年)に芭蕉が没した後元禄12年(1699年)に芭蕉の高弟である去来が遺志を継ぐように博多の街を訪れてその亡くなる時に詠んだ句を博多の俳人に直接伝えている、翌年には全国でもっとも古い芭蕉句碑が博多に建てられた(現 枯野塚)、そんな縁が芭蕉と福岡の地の間に拡散し漂い続けていたということのように思える。
芭蕉句碑の先には直方市石炭記念館というのが建Sekitankinenkn0408a っていて、ついでに見てみるとこれも面白いというか興味深い。展示で特徴的なのはこの建物がもともと炭鉱の歴史を伝えるとともに落盤事故などの炭鉱事故時の救援訓練に供された施設だったというあたりだ。救命用の装備が展示されており、建物背後の斜面には救護練習用の模擬坑道も併設されている。炭鉱事故のリスクをいかに軽減するかが大きな問題だったとうかがえる。炭鉱のリアルを見る思いだ。
この古い神社にはこの地ならではの歴史そのものが詰め込まMogikoudo0408b れていた、神社とはこういう役目を背負うにふさわしい場所だったんだ、多層なタイムカプセルといってもいい場所だったんだ、と何か合点した思いで帰路についた。

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2026年3月 8日 (日)

神戸国際会館のコルトレーンの演奏が

このところコルトレーンの演奏を手持ちのCDで聴くことが多くなった、Jazzらしいというか居間がたちまちJazz喫茶の雰囲気を帯びてくる、というか そんなところがよくてそうなっているのかな、と思っている。記憶をたどるとコルトレーンは昔1度だけ死の前年に来日していて、その演奏を神戸国際会館まで聴きに行った覚えがある。まだ坊主頭の高校生で住んでいた西宮市の山手から夜にそんなところに一人で出かけるのはちょっと世間的にはどうなんだろうという思いを引きずっていたのも覚えている。でもアヴァンギャルドに変身したコルトレーンの生き方が謎のようでどうしても聞いてあるいは見ておかねばときつく思っていた。演奏は全く伝わってくるものがなかった、ステージで5人のプレイヤーが死にものぐるいのように演奏しているが聴衆の心に全く届いてこない、その隔絶感ばかりが心に強く残った。こんなコンサートもあるのだ、不思議な感じすらした記憶がある。最近になってネットを漂っていると、この神戸国際会館のコColtranekobe1966b ルトレーンの演奏を客席で個人録音したものがCDとして売られているのに行き当たった、まさか、と思ったが著作権期間が50年であった頃著作権が一旦切れておりその後法改正で70年に延長されてももう切れたままの状態となってこんなことが可能になったように思える。とにかくネットで発注すると数日で送られてきた。音は良くない、ふつうのCDに慣れた耳にはこれ何、と思えるくらいだ。ともかく聴くとあの時感じた隔絶感は少し和らいでいる、当時よりアヴァンギャルドを色々聴かされた結果こんなものだよなと思えるように頭がなっているようだ。でもコルトレーンとファラオサンダースの2本のテナーサックスの聞き分けができない、それを手掛かりを求めてしつこく聞く気にはなれない、音の塊を感じる記念碑で十分ではないか、そんな気がしている。
神戸国際会館で聴いた翌年東京で大学生活をはじめたばかりのある日 巨星墜つ の垂れ幕が渋谷道玄坂のビルから下がった、コルトレーンが死んだのだ、Jazz喫茶はどこもコルトレーンばかりをかけていた。

Jazzという思い出に浸り続ける日々が過ぎていく。

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2026年2月28日 (土)

時々海を見たくなる

北関東にいた時は海を見るというと水戸近くの太平洋沿岸まで70㎞くらい走らねばならず思うだけの事柄の一つだったが、この地福岡ではほんの20分も走れば海がみられる、見ようという意志さえあれば叶うことの一つだ。ただし博多湾内の海は内海で太平洋や日本海にじかに接するのとは訳が違う、博多湾で水平線が見れるのはほんのわずかだ。それでも矢張り海が見たいと出かける。幻想の海なのかもしれない。数日前室見川河口に出て海を見た。河口にはスズガモが80羽くらい集まって採餌している、それくらいだ。別に。。という海が能古島や糸島の半島、志賀島と海の中道に囲まれてのっぺりと広がる。

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歴史を思えばここらは元寇で蒙古が攻め寄せてきた時の上陸地点付近だ、そうまで緊迫しなくとも、大陸から色々のがものがこの地を経由して日本国内に広まっていった。仏教も唐から戻った空海は博多に上陸して真言宗を開いた、うどんもうどん製造機とともにこの地に伝えられここから広まった。単なる窓口ということかもしれない、でもそれでも十分だ、流れ込む、あるいは流れ出す、それを運ぶ海がある、それをじかに見ることができ

Suzugm0224aa1sgn るすがすがしさがある。
時々そんな海を見に行ける、そのことだけでもこの地の素晴らしさがあるように思っている

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2025年12月18日 (木)

古代エジプト展を観てみる  ちょっと情けなくなる

今年から来年にかけて東京、静岡、愛知、広島、福岡、大阪、長野 と巡回するブルックリン博物館所蔵品による古代エジプト展が福岡市美術館に回ってきたので早速見に行ってきた。純粋にこんなものまで紀元前20世紀の世界で存在していたのかという驚きと、エジプト政府公認でないこんな展示会は本来あるべきではない、エAncientegypt1216a ジプトの文化財を誇りにするニューヨークの博物館というのもまったくなさけない、という思いが抑えきれなくなる。多くが個人収集家の蒐集品の買い上げ・寄贈という形ではあるが、そもそもの収集家がもとの農民に払ったお金などおそらく今の価値観からはタダ同然で、イギリスの植民地だったからなしえたことではないのか、あるいはそんな買い上げが盗掘を促していたのではないのか、本来の場所に返還されるべきあるいは許可を得て貸与さるべき物のように思えて仕方がAncientegypt1216b ない。大英博物館の収蔵品と同じだ、植民地にしてしまえばこんなことも造作ないとの植民地主義の成果を見せつけられているだけのような気がしてならない、情けない。
人類はこういうことをしてしまう、と実感する意味でも興味深い展示会であるようだ。

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2025年11月30日 (日)

トリニティ**3

小林エリカの「最後の挨拶」を読んで少し感じるところがあってこれは「トリニティトリニティトリニティ」もやはり読んだほうがいいかなと図書館から借り出して読んでいた。予感通り何だかきつそうな話だった。トリニティという言葉が動き回る、アメリカの原爆開発(トリニティテスト)、放射能の石を握る老人達(トリニティと呼ばれる)、更には(父と子と精霊というより)母と子と血の三位一体(つまりトリニティ)、が出てきてトリニティの3乗ということのようだ、よくわからない。でも興味深い本だ。例えば中で出てくる戦前

Trinithy3 の日本の原爆計画がそれなりに進められていたあたりなどは、そんな話も聞いたようなとの気がしてくる。改めてネットで調べてみると当時かかわった中根元理化学研究所副理事長のインタビュー記事に行き当たったりする、仁科博士を中心に二号研究と呼ばれた原爆研究が行われていた、確かにそのようで、ウラン濃縮まで着手していたようだ。また、これも出てくるナチスのUボート:U234潜水艦で日本に向かってウラン化合物を運んでいたというのも、ほぼ事実のようだ。日本に向かって大西洋を航行中ドイツ敗戦の報が入り、そのままアメリカに投降して日本には届かなかった、この時艦内にはウラン化合物550㎏位があったとされる、箱にU235と書かれていたようでウラン235の化合物として運んでいたようだ、U235の臨界質量は23㎏ということを考えると十分原爆の材料になる位の量だったと思われる。米国へ投降してこのウランが米国に渡っているのでこれが日本に投下された原爆の材料になったということはありうることのように思えてしまう。当時ドイツには遠心分離濃縮の技術はなかったと言われるがドイツで遠心分離濃縮を研究していた研究者をソ連軍が捕獲しこれにより2年後にソ連が原爆実験を行ったことを思えばなにがしかの濃縮技術はドイツにいた時にすでに保持していたと考えてもおかしくないように思う。米国もソ連もこと原爆の開発については本当のことはしゃべらないと決めているふしを感じる。ソ連は最初の原爆は遠心分離で濃縮したウランではないガス拡散によったと当時説明していたが後にそうではなかった遠心分離だったと訂正している、何か本当のことは言いにくい事情があったようだ。それは今も続いているのかもしれない。奪い取ったナチスの科学技術がその後の米ソの宇宙レースと核開発レースの基盤を与えていたというのは考えてみればとんでもない話のように思えてくる。

面白い本だ。こんな本は、興味に従って本を離れて考えというか思いを宙にめぐらせていく、そんな読み方が好きだ。

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2025年11月24日 (月)

中国が気になって

日課のように気象データを毎朝取得しているが、つい先日中国のゾンデデータの11月18日12時UTCのデータが全土で欠測という事態があった、1ヵ所が欠測というのはよくあることだが全土一斉にというのはそのような指示が出たかという気がしてしまう。これはまた台湾を巡る高市発言で過敏になっている中国が軍事データにもなる気象データの提供をやめる事態にまでなったのか、と暗澹とした気分になったのだが、翌日になってまた復活した、いつも通りのデータ提供となった。国際的取り決めがある以上ずっとやめるというわけにはさすがに行かないのだろう。
こんなこともあってくだんの高市発言とは本当のところ何だったのだろうか、中国の対応がここまでのものになるのは誤解といえるのだろうか、と少し調べてみた。

問題の発言は2025年11月7日の衆院予算委員会で行われた高市早苗首相と立憲民主党の岡田克也元幹事長の質疑応答ででてきたものだった。(発言表記は時事ドットコムによる)
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岡田克也氏 まず確認したいのは存立危機事態以外、つまり限定のない集団的自衛権の行使は違憲である。これが従来の政府の考え方だと思うが、維持されているか。

高市早苗首相 憲法上、わが国による武力行使が許容されるのは、いわゆる3要件を満たす場合の自衛の措置としての武力の行使に限られる。

(以下、説明、やりとりあった後)

岡田氏 そういった答弁があるにもかかわらず、一部政治家の不用意な発言が相次いでいる。例えば高市首相は1年前の自民党総裁選で、中国による台湾の海上封鎖が発生した場合を問われて「存立危機事態になるかもしれない」と発言した。私も「絶対にない」と言うつもりはないが、どういう場合に存立危機事態になるという考えだったのか。

(やりとりのあと)

首相 例えば台湾を完全に中国・北京政府の支配下に置くようなことのためにどういう手段を使うか。単なるシーレーン封鎖であるかもしれないし、武力行使であるかもしれない。偽情報、サイバープロパガンダであるかもしれない。いろんなケースが考えられるが、やはり戦艦を使って武力行使を伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になり得るケースであると私は考える。

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確かにちょっと言いすぎているようにも感じる。
こういう表現では台湾進攻に戦艦が登場するような武力が使われたのならそれは日本にとっての存立危機事態だと考えると述べていることになる。こんな風に台湾が侵攻されたら日本が直接攻撃される危機があるので日本も武器で応じることができる、として、日本が直接攻撃されることが起こっていなくても武力で対応するといっていることになる。
これは結構刺激的な発言に見えてしまう。もし中国が台湾に攻め込めば日本は出兵すると言っている風にもとれるように思う。
ここで想起してしまったのは1949年中国共産党軍が蒋介石の率いる国民党が支配する台湾へ進攻しようとし、武力衝突が金門島で発生、結果蒋介石軍が大勝した、その時蒋介石軍を現地で助けたのが密航して台湾に渡った旧陸軍の根本陸軍中将他数名の日本人軍事顧問団だったという歴史だ。形を変えてまた日本の介入が起ってしまうのかという思いが中国側の頭をかすめたのはありそうなことにも思ってしまう、日本の介入は何としてでも排除しなければならないと中国側が思ったとしてもしかたのないことなのかもしれない。

高市答弁がやや唐突に強い姿勢を示したように見えるのは、ここに至る10日くらいの間に10月28日のトランプとの会談、10月31日の習近平との会談と立て続けに重い会談を行ってきているが、トランプからは台湾有事では日本も軍事的役割を果たすよう念押しがあったのかもと想像してしまう、それを言っておかねばという思いに駆られての発言だったのではなかろうか。
こんな事態の進展は考えるだけでなんとなくやりきれない思いがしてくる、たとえ中国と台湾の共存が難しい状態に至ったとしても武力衝突は勘弁願って平和的に合作の歴史が繰り返されることをここは望みたい。

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2025年10月29日 (水)

九州国立博物館で「法然と極楽浄土」をみる

九州国立博物館には結構出かける、今回は法然と極楽浄土という出し物で宗教はあまり好まないが暇な時間もたっぷりあるからと見てみることにした。クルマで行って驚いた、駐車場が満杯近い、こんなありさまは見たことがない。浄土宗が気になる人がこうもいるということなのだろうか、わからない。まずは午後のバックヤードツアーの予約をする、これがこの日の大きな目的でもある。法然のほうを見始めるがとにかく人が多い、ガラスに沿って列をなして観るのはしんどいので2列目の自由に動ける位置で適宜見て回る。写真撮影は最後のところ以外はできない、展示が多くて頭に入らない、特にかすれたような宗教Hounennx 画が次々に現れるが有難みを感じられなくてフーンという感じしかしない。彫像のほうはほうというものが色々あって結構面白い。福岡市の善導寺から出されている小ぶりの善導大師立像(添付図はパンフレットより)はかわいらしい姿だが調べると頭部に歯が入っているZenndoux のが九州国立博物館のCTスキャンで解ったという。善導寺を開いた聖光上人の歯ではないかともいわれているようだ。いかにも宗教の世界らしい。徳川家康は浄土宗に入れ込んでいたようで等身大の家康像も展示されていてちょっと驚いた。仏師康猶に秀忠が命じてつくらせたもので1620年より前に作られたとされているようだ。目力といい本人のリアルな存在感が伝わってくる。知恩院が所蔵しているが通常は見れずこんな特別展でだけ公開されるようだ。
これは確かになかなかの展示会だ。
この後せっかくだからと4階の文化交流展示室もみる。沖ノ島の遺物(国宝)が目を引いてしまう。
やはり億劫がらずにここは来てみるべきところのようだ、日本に4つしかない国立博物館なのだから。

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2025年10月 5日 (日)

福岡アジア美術館の特別展 ベトナム、記憶の風景 を観る

ベトナムという国がちょっとわからなくて気になっていたところへ福岡アジア美術館で 特別展 ベトナム、記憶の風景 というベトナム美術展が開かれていると知り、これは見たほうがいいのではないかという気がして見に行った、もう2週間くらい前のことだ、あっという間に時は過ぎる。
昭和通り(昔住んでいたころは50m道路と呼んでいた、昔から広かった)の中央にある入り口からリバレインの地下駐車場に入り、少し奥のこの辺かというあたりにクルマを止めて近くのエレベVietnumart ーターに乗ると直通で福岡アジア美術館に出る。中州だが車で行くのが便利のようだ。
近年のベトナムの歴史をたどって展示は進む。フランスの植民地だったのを日本軍が進駐してフランスを追い払い終戦後またフランスが当然のようにやってきてベトミンとの戦いになる、フランスは追い詰められ撤退して今度は米軍がドミノ理論を抱いてあらわれる、ベトコンとの戦いになり、最終的にはアメリカも追い払う、長い苦しい闘いの歴史だ。日本もその歴史にかかわっている、戦前の日本人画家の作品も紹介されている。抽象画と呼べるような絵は一枚もない、それも当然のように思える。作品それぞれになにがしかの物語がありインパクトがある。
歴史的な戦前の作品やベトナム戦争時の作品、そしてその後のものを見ていく。複雑だ。貧困の実相もある。これはそのままのベトナムを受け入れるほかない、そう思ってしまう。
出口に来るとベトナム人らしきレポーターに日本語で呼び止められる、テレビ取材してもいいかとくる。無論OKだが、どこのメディア?と聞くとベトナム放送局だという。これはちゃんとしてる、ちょっと面白い。何故この展をみることになったか、どう思っていたか、見た後はどう思うか、といったあたりだ。ベトナムという国がわからなくて見に来たがやっぱりよくわからない、流れているものは感じ取れたような気がする、というようなことをとげがないように話した記憶がある。やり取りの一部が切り取られてベトナムで放送されるのかもしれない。しかしともかく何かに参加できたような感触が残ってそれがいい心の残照となっていると感じる。一度ベトナムという国に行ってみなければと思う、でももう遅いかな、そんなことを考えながら会場を後にした。

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2025年9月30日 (火)

老司瓦窯遺跡に行ってみる

先月大野城市や春日市のエリアにある7-8世紀のウトグチ瓦窯跡などをみてそういえばもっと近くに老司瓦窯遺跡というのがあって一度行ったがよくわからなかったとの記憶があってあれは今どういう形の保存になっているのだろうと思い立って先週訪れてみた。観世音寺の瓦はここから出ていったと聞いたような気がする。Roujikawara
以前は老司公園に表示があったような気がしていたが今は少年院の入り口近くに看板が設置してあり片側をアスファルトで固められた斜面の上がそのあとのように見える。これがそうなんだろうがなんだかよくわからない遺跡だ。発掘調査報告書を探して読んでみなければならないだろう。
それにしても不思議な気がするのは東に続く老司老松神社の周辺に焼き物片のようなものが散乱しているのが見えたりするあたりだ、パッと見た目古い焼き物のようにも見えてしまう。神社の裏の丘が5基の古墳になっているようでここらは遺物だらけなのかもしれない。60年くらい前に奈多海岸に散乱していた土器片の様を思い起こしていた。これとは別に、遺跡の説明看板に書かれた地図に地蔵のマークがあったのでそこへ行ってみたが何もない、住宅になっているようだ。おそらく私有地で売却のあげく現在のような姿になったのだろう。福岡にもどると今も残るバブリイな空気感とともに古いものの痕跡は軽んじられているような空気を感じてしまう。開発優先にしないとどこも掘れないなにも作れないということなのだろう。古代の交易の中心となっていた鴻臚館跡は福岡城の一部になり旧陸軍の連隊本部がつくられ戦後は平和台球場が作られて西鉄ライオンズの本拠地として使われたりしていた、あんまりだというのか新球場に引っ越した後、やっと遺跡として保存されている。でも、現実にはこんな歴史への向き合い方の歴史はしょうがないのかもしれない。
もう少し福岡の古い時代の痕跡を探訪してみようか、そんなことを思っている。

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2025年8月28日 (木)

日本遺産から「西の都」が指定解除されたと知って調べる、日本遺産とは何なのか

九州北部の牛頸須恵器窯跡やウトグチ瓦窯跡のことを見たり調べたりしていて、2025年2月「西の都」日本遺産から指定解除される、の文字に行き当たった。牛頸須恵器窯跡は日本遺産「西の都」の一部となっている。日本遺産というのは言葉としてはどこかで聞いていたように思うが世界遺産の日本版なのだろうくらいに思っていた、それが指定解除とはいったいどういう間違いがあったのか、と思ってしまった、普通ではあまりおこらないような印象を受ける。少し調べると、やや分かったがまだなんとNihonisanna なく腑に落ちない。とにかく調べる。
日本遺産の選定は世界遺産や国宝・重要文化財などとは全く違って、地域活性化言い換えれば集客にその目的がある、というのが調べてわかった最初の小さな驚きだった。あれこれやりとりしながらAIにまとめさせると:
日本遺産は「文化を守る制度」というより、実際には地域の魅力を観光資源として発信し、観光客を呼び込むための仕組みです。
文化庁は「地域に点在する文化財を物語でつなぐ」と説明していますが、狙いはそれを観光ブランド化し、集客を通じて地域を元気にすることにあります。
つまり日本遺産の本当の役割は、歴史や文化を「見せ方」に変えて、地域活性化につなげることだと言えるでしょう。
となる。そうだったのか。
日本遺産の指定を外されるということは、今のやり方ではこのエリア全体にはうまく集客できない、ほかの地域の提案のほうがずっといいので、一旦ここはやり方を全面的に見直して、指定をほかの提案者に譲ってください、指定総数は100程度という縛りがありますので。ということになる。それならわからなくもない。
そういう目で見ると、「西の都」の構成要素に挙げられている場所はいったいどうやって行けばいいのだろう、というところが結構ある、また、例えば牛頸須恵器窯跡のように構成要素そのものが散らばっていてここを見れば面白いというところがどこかはっきりしない、とか、集客の目でみるとこれ何?というところが目立ってしまう。最初からどこか考え違いがあったようにも見受けられてしまうし、なんとなく福岡人らしい早とちりかな、とも思ってしまう。
調べると今年になって突然指定解除言い渡しがあったわけではなく認定後6年目の評価として、平成27年度認定された「西の都」を含む(最初の)18件の評価を令和3年に行ったところ、「西の都」を含め4件が問題ありの指摘で再審査となり、令和6年から再審査は点数評価プロセスで新規提案と競争することになって、点数が明瞭に低かった「西の都」が陥落の憂き目となった、ということのようだ。再審査の他の地域はいずれも高得点で日本遺産のお手本となるという重点支援地域の認定をうけることになって「西の都」との差が際立ったということのようだ。細かい採点は明らかではないがそれなりに合理的な手順を踏んでいるようにも見える。
日本遺産の選定が今後どうなっていくか、毎年指定を外すものが出ないと新たな提案は採用されないとなると、次に外されるのはどこか、奇妙な点取り主義競争が蔓延しないか、いささか先行き不安なものも覚えてしまう。日本遺産はどうあるべきなのかもう一度議論すべき時期に差し掛かっているようにも思えている。

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